こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

こしのり漫遊記 その19「NHKがやらかしたらしいな」

 

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 昨日のヤフーニュースでNHK受信料を払う、払わないで揉めた裁判の記事がアップされていた。

 ちょっと興味があったので読んでみたら記事の下のコメント欄にはNHKに対するお叱りの声が多数投稿されていた。

 

 見ていないのに何故受信料を払わなければいけないとか、金も払って無いのに電波を送って来て後で金をよこせとか送り詐欺みたいじゃん的なことが書かれていた。こういう怒りの意見には「まぁ、確かにな」と頷いてしまう点もある。

 

 契約の義務っていうなんだかしっくり来ない言葉も目立っていた。利用したいサービスを選んで顧客と業者で納得した上で契約を結ぶのではないのか、それが医療現場なんかでよく言うインフォームドコンセントってやつだろう。とかも思ったりした。

 

 私は多くのNHK番組を見て育ってきた。大変世話になったチャンネルだと言える。

 なのにだ。地デジ放送に変わった頃くらいかな。あの頃くらいからあっちやこっちやで悪口を聞くようになった。不祥事もちらほらあったりで信用が落ちるきっかけも確かにあったな。そんなわけで私もちょっとした不信感を持つようになった。

 

 NHKは確かに上質な番組作りをして私の青春を楽しいものにしてくれた功績がある。しかし輝かしい過去のことはこの際置いといて今の状況を考えてみよう。

 

 今のNHK番組作りに関してはあまり手厳しいことは言いたくはないが、昔と比べて質が落ちたかと聞かれたとしたら、私はこれに対してはっきりと否定は出来ないであろう。

 毎年の紅白歌合戦を放送すればどっかの番組評論家や私の周りの人間が「落ち目だね」「質が落ちた」「下らん」などといった手厳しい意見を吐く。確かにこれらの厳しい意見の全ては否定できない。

 

 NHKがいつから有料放送ぶるようになったのかは知らないが、有料なのにスクランブル無しで普通に見れちゃうという人によってはお得なようで迷惑なようでもある不思議な放送形態をとっている。だったらAT-XとかANIMAXも無料開放してくれよと思ってしまう。

 

 NHKスクランブルがかからないことに関しては、表向きの理由はこれこれというわけであると記事でも語られていたが、あれはイマイチ要領を得ないものであった。

 まぁ、スクランブルをやっちゃったら確実に受信料での収益が落ちるからってのが本音だと思うのだけど。

 

 スクランブルがかかる対象となる有料番組は無料の民法番組と比べて、より質の高い物を流すために付加価値が発生する。この付加価値の部分に特別に料金が発生るするのだ。 

 ならば現在のNHK番組にその付加価値なる物があるのかと言うとだ、これは真に残念なことだが、無い。無い物は無い。現在、私にはNHKならばこそという付加価値の部分を探すことが出来ない。

 

 NHKの衛星契約の方は一月だと2200円か2300円くらいだったと思う。

 これは各チャンネルに対する私の趣味や興味も入っての分析になるが、NHKと一月の利用料金が近しいWOWOWAT-Xなどの有料放送の質を考えると、NHKが有料放送としてこの料金で勝負するのはおこがましい。

 NHKの受信料ってそんなに高かったんだと昨日は驚いた。さすがに料金取りすぎだわ。

 

 NHKの番組の質から考えてこの高い料金では、現在実写化してファンの間では賛否評論(個人的手ごたえでは否の方が意見多め)の作品「鋼の錬金術師」で心に刻まれたワード「等価交換」に反する。

 

 「100円玉をあげるから10円玉を10枚ちょうだい」

 という話であれば、100円玉をもらった方は10円玉を10枚で返す以外はただの一枚でも多い、足りないということがあってはいけない。それでは等価にならないからだ。まぁ個人的には返しが多くなって11枚目12枚目が手に入ったら文句は無いが、足りない分は看過出来ないね。殊に商売の場合なら等価で当然良くて払い以上の物を返すくらいのことをしないと客から満足は得られない。

 

 結果的に私はNHK好き人間であるのだが、昨日のヤフーニュースを見てこういったショックを受けたわけだ。味方してあげたかったのだが、受信料のことについて文句を言う皆さんのコメントに頷ける点が多くて胸が痛んだね。

 

 世間に好かれる放送局、あるいはチャンネルであることを目指して欲しいね。

悩める男優の女装コメディー「トッツィー」

 1982年公開、ダスティン・ホフマン主演映画「トッツィー」を見た。

 

トッツィー [DVD]

 

 ダスティンの出ている映画はだいたい面白い。

 

 現場で揉め事ばかり起こすために仕事が激減した俳優マイケルは遂には女装して女性役のオーディションを受ける。一時しのぎでやった仕事であったこの女性役が意外にも世間に受けて雑誌の表紙を飾るまでのスターとなってしまう。世間では女装した彼に憧れを抱く女性も現れ仕事を辞めるにも辞められない状態に追い込まれる。そうい困った毎日の中で彼もとい彼女には恋の悩みものしかかる。仕事と恋に悩む女装男優のロマンティックコメディーである。

 

  

 マイケルのプライベートは男として女としてのそれぞれの生活を上手い事分けて行わないといけないので大変すぎる。

 

 男と女の生活を行き来する中で、恋人のサンディのデートを上手い事断り、女装後の現場で新たに好きになったジュリーとの親交を深めていく。女装したマイケルの強く生きる女性としての姿にジュリーは憧れを抱いている。ジュリーに尊敬されるのと同時にマイケルもジュリーのことが好きになっていくのだが、一応女性対女性の形を取っているためにマイケルが行動に出ることが出来ず歯がゆい思いをするのは印象的。

 

 女装後のマイケルは意外にも男性にモテてジュリーの父にプロポーズされ、現場で知り合った医者役の男には襲われかける。話の流れでサンディにはゲイと疑われ、ジュディにはレズと疑われるというひっちゃかめっちゃか状態に陥る。

 

 ダスティンの女装が結構完成度が高くて最初に見た時はちょっとごついだけで本物のおばさんかと思った。だんだん女装にはまってきたのか服やアクセサリーをマジで選んでいるシーンなどは面白かった。

 

 笑いばかりでなく、男でありながら女性目線にたったマイケルが女性の権利の確立を女性に理解が少ないおっさん監督に訴えるシーンなどちょっぴり風刺がかった真面目な部分もあった。

 

 

 軽妙なテンポで進むロマンティック女装コメディーであった。

 

 

 映画「トッツィー」は頑張る女性と一部の女装おやじを応援しています。と思えるような映画に仕上がっている。

 

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農家を舞台にした愛憎劇「楡の木陰の欲情」

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 劇作家オニール作「楡の木陰の欲情」を読んだ。

 

 いや、全く知らない本だった。

 何か底知れぬ深いテーマがあるような心に引っかかるこの変わったタイトルに釣られて読んでみた。

 

 これは面白い。

 作品前面に良くも悪くも「人間」らしさが漂っている作品であった。

 

 私が手に取って読んだのは昭和27年に発行された岩波文庫のやつである。この版は大変古い本なので本文として記載される漢字が難しい旧字体でちょっと読みにくかった。

 現代では「それってどうなのよ?」と思えるようなちょっと汚い差別的表現が含まれた言葉も載っている。とにかく出てくる登場人物の態度と口が悪い。あと、田舎者ゆえセリフもめっちゃ訛っている。

 

 私が手にとったこの古い本ではタイトルが「楡の木陰の慾情」となっているが新しく出版されたバージョンでは「楡の木の欲望」にタイトルが変わっている。

 

 一応は近親相姦となるシーン、嬰児殺しといった道徳的に宜しくない表現が含まれている。その関係からか戦前に日本でこの芝居を上演しようという企てが持ち上がった時にはボツにされたとあとがきに書かれていた。

 

 

 本作の舞台はずっと農家のキャボット家の敷地内に固定している。家の外に出ても裏庭か牧場の一部分くらいである。時は1850年ニューイングランドとなっている。地理の知識に乏しい私には一体地球のどこなのか皆目見当が付かない謎の地でのお話である。

 

 キャボット家は2本の楡の木に挟まれて立っている。楡の木に挟まれたこの家を舞台として人間の欲望と愛情と憎悪とが交錯する重厚なストーリーが展開する。

 

 登場人物は少なく主な人物は

 

 イーフレイム・キャボット 75歳 キャボット家の父 

 シミアン         39歳 キャボットの息子 その1

 ピーター         35歳 キャボットの息子 その2

 エベン          25歳 キャボットの息子 その3 

 アビー          35歳 老キャボットの新妻 

 

 この5人である。

 

 

 キャボット家の父イーフレイム・キャボットは柄が悪くガタイが良いジジイ。態度の悪さとは裏腹にカトリック信者で神の存在を信じている。その父が何やら訳のわからないことを抜かして家を開けて旅立ってしまった。その間、これまた終始野蛮な態度を取る息子三人が何とか牧場の経営をまわしてた。

 上の息子2人と下のエベンとは母親が違う。エベンの母が元々所有していた牧場の権利をくそ親父が持っていったことをエベンは憎らしく思っていて、牧場の権利を親父から取り上げることを考えている。

 エベンの亡くなった母への健気な想いはちょっと可哀想で泣けてくるぜ。マザコンである。

 

 兄二人はカリフォルニアで金を掘ると言って家を出て行ってそれっきり登場しない。入れ替えで老キャボットが自分の半分以下の年齢の嫁アビーを連れて帰ってくる。

 中盤からは家の中はエベン、アビー、老キャボットの3人のみになる。

 この実質親子三人でドロドロした三角関係になる。この中盤からが見所である。

 

 アビーは不幸な生い立ちを持ち、とにかく安定した生活と家が欲しいために愛しても無いジジイのキャボットと一緒になった。

 エベンは亡き母の持ち物である家を守るためにジジイにもアビーにも家を渡さんと頑張るが、アビーの美しさに惹かれて徐々に心を許していく。アビーに家を良いようにされたくはないが、妖艶なアビーを前にしてしどろもどろするエベンが印象的であった。

 

 エベンの母への執着はちょっと特殊な物であり、アビーはそれを上手い事利用してエベンを篭絡する。亡くなった母の部屋で一応親子の関係になった二人が肉体関係を結ぶこの場面でアビーがエベンを言葉巧みに丸め込む手段が中々すばらしい。一番の盛り上がり部分がココだったかな。

 

 後半ではアビーとキャボットの間に息子が生まれる。しかしコレは本当はアビーとエベンとの子であった。

 アビーは最初こそ自分が家の中で動きやすくするためにエベンに色仕掛けを使ったりしたが最終的には本当にエベンを愛するようになっていた。しかし老キャボットにアビーは家が欲しいからエベンを騙しているだけだと吹き込まれたエベンはアビーを激しく罵る。

 その後、アビーは身の潔白を証明するために生まれて間もない息子を殺してしまう。

 

 エベンは嬰児殺しの罪を犯したアビーをひっ捕らえるようにと役人を呼び、罪人は捕まって話は終わりを迎える。

 罪人を引っ張っていく役人が牧場を見渡して「綺麗な牧場だ。これが自分のものならいいのに」的な心に響く一言を漏らすのが印象的であった。

 

 エベンはアビーを役人に訴えた後でよくよく考えたら自分はアビーを心底愛していたと悟り涙を流してアビーと分かり合う。自体が悲劇にまで発展した先になってやっと二人は真実の愛に辿り付いたという救いがあるようで無いようなエンドであった。

 嫁と息子が出て行って家に一人になった老キャボットが一人で寂しさを感じる所も印象的であった。

 

 金を掘り当てる夢を持ってカリフォルニアに旅立ったシミアンとピーター、体を売ってまで安定した生活を求めたアビー、死んでも牧場を他人に明け渡さないと終始独占欲を振りまいていた老キャボット、亡き母の想い出である牧場を自分の物にしようと燃えるエベンといった風に楡の木陰の中にあるキャボット家では常に欲情、あるいは欲望が渦巻いていた。

 人間の人間たる激情の一つである「欲」が全編通して振りまかれた作品であった。

 この本を読むと普段は体裁を取り繕っていても、欲のために醜悪な様を見せるのもまた人間の本能であり性であると納得できた。

 

楡の木陰の欲望 (岩波文庫 赤 325-1)

楡の木陰の欲望 (岩波文庫 赤 325-1)

 

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 ちなみ我が家の庭には松の木が生えていてコイツの手入れが結構大変である。