こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

こしのり漫遊記 その26「因習とか知ったこっちゃない」

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 因習、それは古くから引き継がれる伝統的風習を指す。人はなんとなくで生きている限り、それを行う意味に気づかない。

 

 こんなことを考えたのは、私が一族の結婚式に呼ばれたからだ。

 

 私は昔からこういった「とりあえずやろう」みたいな儀式に関しては、「とりあえずに意識が行き過ぎで本質をおざなりにしている」と感じていた。

 なので、行かないことにしていた。卒業式とか成人式とか葬式とか、あとは会社単位で開かれる諸々の儀式とかもそうである。あんなものは主催者や参加者の自己満足で本質的なものは何もない。よって、行くも行かないも全く自由で良いと考える。

 

 私は物質主義者で無神論者でニヒリストでおまけにシニカリストときている。こういった因習を重んじることなく、簡単に無視することが出来る人間である。

 

 そんな私が結婚式に出るなど、時間の「無駄ヤン」としか想わなかった。

 私がこれまで幾度なとくやってきた因習を打破すると行為(と言っても参加していないだけで、逆に何もしていないとも考えられるが)は普通の人なら容易にできることではない。なぜなら、自ら少数派を名乗ることになるからだ。数が多いほうに属する方が「何か安心する」という現代人的思考と逆を行くことをやれば、ヤバイ奴、おかしい奴、怖い奴など、とにかく好奇の目で見られる。現代人の多くはこの目で見られることにビビるものである。一般とされる価値観とは根っこを違えた稀有な者しかこの芸当はできないと想う。その点で言うと私は一般の価値観と離れたところで生きているのでこういったことが平気なのだ。自分を美化して言うわけではない。私が自然に生きているというただの事実を語ったまでである。

 

 私の身内の中には、「行きたくない」「めんどい~」とか言ってる者もいる。

 「じゃあ行かなきゃいいのに」と想うけど、そこには彼らにあって、私にはない事情がある。

 

 ああ……人々はなぜこんな大したことのない価値観に縛られて、自らの思考性や視野を狭めるのだろうか。

 

 葬式に行かずに「死んだらそれまで、関係は終わりだ」といった具合に線引きが確実な方には好意を持つ。私は仏教とか何も信じてはいない。しかし、昔読んだ「天平の甍」という本で、日本の僧達が日本に仏教を広めるために青春と命をかけて鑑真和尚を中国から日本に送ったあの話を知ってしまうと、仏教を軽んじたりバカにしたりはとても出来ない。仏教を信仰はしないが、仏教の発展を行った僧達は尊敬しているという複雑な想いがある。

 

 で、今回の結婚式はどうだろう。私はこんな物はやるならやればいいが、私の与り知らないところで楽しくやるが良かろうと想う。私が愛の証人とならなければ、当事者二人が愛を誓い合えないと言うなら、そんな愛は偽者である。周りの誰もが反対したとしても、互いの愛を信じあい、誓い合った二人なら、駆け落ちでも何でもして必ず幸せになるはずだ。私が結婚式に出向こうが出向かわないが、二人の未来がどうなるかに何も関係しないし、責任もない。では、重い腰をあげて私がわざわざそこに向かう理由は何なのか、しかも休日にだ。これは詰まるところ、私の嫌う「なんとなく」によるものである。本人達も私の存在の有無はどうでもいいだろうし、何ならいてもいなくても気づかないだろう。

 こんなことを長々と言うと「もしかしてハッピー全開の新郎新婦に嫉妬しているだけでは?」と想われそうだからそこは否定しておこう。そもそも私は独身主義者で、おまけに恋愛観について言うと自由恋愛を主義としている。よって結婚というある種の制限をつけてしまう男女関係には特に惹かれる点はないので、嫉妬の対象にはならない。

 人の幸福な様を見ることは喜ばしいことではないか。

 

 皆が「なんとなく」で流すところに、私は変に意識が行きすぎと言えばそうかもしれない。しかし、私はとにかく時間を無駄にし、その上つまらなくすることは大罪だと想っている。だからこうして細かいことを考えてしまう。

 

 掲げる意志があれば降ろすのは容易ではない。私はもちろん結婚式は行かないと決めたのだ。思想によるものと、あとは単に面倒だからという二つの理由でだ。

 しかし、私の尊敬する母が「いきなさい」と言う。私は自分を産んだこの母を愛し、日々感謝するがゆえに、可能な限り彼女の要望には答えてあげたいと常々想っている。そこで硬い意志がちょっとだけ和らいだ。

 そして母は私の硬い意志を完全に柔らかくしてしまう一言を放った。

 

「タダ飯がたべられるよ!」

 

 私はかつて、死ぬ程ひもじい想いをしたことがある。飢えること、これはお化けや雷や暴力団よりも怖い。

 今の私は、そこを脱してはいるものの、ありつける飯を不意にすることにはやはり未練と後悔が残ると考えた。まぁ身内ということで、祝儀は持ってこなくて良いという事だ。完全に向こうの奢りで御馳走が食える。飢えを経験したからこそ、このありがたい条件を蹴るのは罰当たりな気がした。いや、もっとはっきり言おう、思想とか主義とかよりも美味い飯が優先される。これ、当たり前。

 

 こういう訳で、難攻不落だった我が思想の壁は崩れ去ってしまった。

 飯に釣られて簡単に意見を変えやがった格好悪い奴と笑いたい奴はそうしてくれてかまわない。思想では飯は食えない。飯があるところに行けば、当然飯をくえるのだ。だから私は飯に釣られて式に出向き、しっかり飯を食うのだ。

 

 同じ感じで葬式や法事もその後においしいタダ飯が食えるので、結果ノコノコと出向いている。

 

 

 総括すると、

 

 飯!大事!

 

 である。

 

 これを前にすれば因習も悪習もない。