1966年、今は無き映画会社「大映」により放たれた名作、それが「大魔神」である。
1966年の4月に「大魔神」、8月に「大魔神怒る」12月に「大魔神逆襲」の計三作が公開された。一年の間に三作を公開したとは、すごい集中力。頑張って作ったんだなと分かる。この年はまさに大魔神イヤーとなった訳である。
後に横浜ベイスターズの怪物投手の佐々木が「大魔神」の異名をとるまでは、「大魔神」と言えば誰もが大映の看板作品と認識していたのである。
そんな「大魔神」三作を久しぶりに見たので、丸っと振り返ろうと想う。
大魔神シリーズは、時代劇と特撮が見事融合したのを売りにしている。三作共にいつかは知らないが、大昔の時代設定がなされ、そしていずれにも巨代な武人「大魔神」が登場する。
大魔神は、普段は穏やかな顔をしたまま動かない石像の姿をしている。だが、悪党共が悪さをすれば鬼の形相になり、顔の色は緑に変わる。
三作共通の流れは、善良な民を苦しめる悪党を、大魔神が綺麗に一掃するというものである。
どの作品も独立した物語が展開され、話の連続性はない。大魔神も作品によって違う場所に祭られている。
・「大魔神」
一作目の大魔神は森の奥深くに祭られている。
圧制を敷き、民を強制労働させる悪党共が、民達の心のよりどころである武人像を壊そうと山に乗り込んで来る。悪党共が大魔人の額に大釘を打つと、割れた額から真っ赤な血が流れ、急に嵐が吹き荒れる。
清純な乙女が涙ながらに悪党共の支配をやめさせるようお願いすると、大魔神はついに立ち上がり、悪党共の砦に乗り込んで気持ち良いくらいに全部をぶっ壊す。
勢い余って大魔神が無辜の民まで襲おうとするところを、また清純な乙女が涙ながらに止めに入ると魔人は山に帰っていく。大魔神は乙女の涙に弱いと見える。
大魔神が額に打たれた杭を抜いて敵の親分を串刺しにしてやり返すのは痛快だった。
・「大魔神怒る」
今回の大魔神は神の島という離れ島に安置されている。船に乗らないと会いにいけない。
今回も悪党共が大魔神を壊しにかかる。前回のように杭で額を割るなんて甘っちょろいや方ではなく、爆弾を使って大魔神を粉々にぶっ飛ばしにかかる。こんなことをされたらそりゃタイトル通り「怒る」以外にないと想う。オマケに神の島の鐘まで割られる。
像を壊された後に水の中から大魔神が登場し、やっぱり気持ちよく敵を一掃する。「十戒」のごとく海を割って登場する大魔神が印象的だった。この時代ならではのパソコンに頼らない頑張った合成が魅力的だった。
・「大魔神逆襲」
今回は主役が大人ではなく、子供。悪者達に連れさらわれて強制労働させられる父親や兄を開放するため、4人の少年が険しい山越えの旅に出る。何だか映画「スタンド・バイ・ミー」ぽい感じもする。
大魔神は雪山に祭られている。
厳しい物語展開の中、4人の少年の内一人は流れの強い川に流されてしまう。
山に硫黄の泉が湧き、強制労働から脱走を計った者は捕まえられてここに落とされて処刑される。これは残酷だと想う。石川五右衛門スタイルの処刑だった。
大魔神の遣いとして大鷹が登場し、悪党を攻撃する。
三作目にして初めて大魔神が腰に帯びた宝剣を抜く。
感想
三作とも素晴らしい出来だと想う。
世界には腐るほどの本数の映画があり、その中には良作とクソが混じっていて、私がこうしてブログなんかを書いている今にだってその両方が作られている。近頃は新作映画をすっかり見なくなった。それは時代が新しいほど、クソ映画が多くなったからである。私は確かに懐古主義ではあるが、ここの所の分析は、偏見という眼鏡をはずしてもあながち間違いではないと想う。
「大魔神」は素晴らしい。CGもないこの時代にこの迫力のものが作れる。特に大魔神が砦や門をぶっ壊す所の迫力は凄い。細かい部品も含むセットを壊すのが勿体と想う程だった。ないないの時代だからこそ、ある技術で頑張る。それが随所に見られた。という訳で、惰性でクソ映画を更新していく現代の作り手はここを見習った方が良い。
10年代に入ってから新作映画をチェックすることが本当に少なくなった。もう私は懐古主義者として著作権が切れたくらいに古い作品を愛していくことに決めた。
大魔神を見て、いい時代だったと想った。大魔神一作目と同時公開したのが「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」だった。大阪の街が凍り漬けにされたあのドキドキハラハラな映画と大魔神ってすごい組み合わせだ。
私は特撮好きで、ガキの頃はレンタル屋の特撮コーナーに置いてる物は片っ端から借りていた。その時、大魔神のビデオもあったが、定価がクソ高かったと記憶している。昔のビデオって高かったよなと思いだした。
改めて大魔神の顔を見ると、ウチの祖母と顔が似ていると想った。アンタッチャブルのザキヤマぽくもあるなと想った。
スポンサードリンク
>