こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

こしのり漫遊記 その14 「ネットに繋がらない」

 

f:id:koshinori:20170607205753p:plain

 焦った。ここ2日間のことである。急にネットに接続できなくなった。ネットに関する知識はそこそこに詰めてきたはずな私でもどうしたものか現状回復の術を見出せなかった。

 ネットが出来ない=パソコンを使わない2日間を送ることになる。私は社会の影なる部分に潜むインターネットが無いともうどうしようもなくなってしまうくらいなドップリなネット依存者の仲間入りをするにはまだまだネットに身を浸し切ってはいなかった。

 パソコンが無い日常、それもまた良いではないか。いやいや困るけれどもたまには良いではないか。電脳空間が無くとも人は生きていけるではないか。私は電脳という名の見えない鎧を脱ぎ捨て裸一貫生まれたての気持ちに帰ったようであった。先程までネットに接続できなくて焦っていたが何だかとても穏やかな気持ちになった。

 私はブルーレイレコーダーのHDDに溜まりに溜まった未視聴番組を次々と見てゆく。楽しい楽しい番組を見ているのだが未視聴番組を視聴後にすぐ消してHDDの残量が増えていくという流れは、押し寄せる大軍隊の兵士をばったばったと倒しまくって徐々に前方の見晴らしが良くなってくるようなスッキリとした爽快感がある。逆に未視聴番組が溜まりまくりHDD残量が少なくなると不安と恐れからのストレスを抱くのだ。TV視聴は子供の時からの趣味だ。そんな楽しみで続ける趣味にもこういうストレスが発生する。自分で幸せな悩みだと思う。

 私はゲームも嗜む。最近はあまりやっていなかった携帯ゲーム機を取り出して遊んでみるとコレがドはまりする。アクションゲームで遊ぶ。こちらでも押し寄せる敵の大軍隊を主人公キャラを操り殲滅させる。群れが徐々に小さくなり最後は勝利者の私(の操るキャラクター)以外に画面に映る者はいない。この時に私は最も興奮と達成感を得る。現実世界では到底行えないであろう行為でもって爽快感を得ることができる。ゲームの付加価値はこれにある。

 先ほどから敵をばったばったとぶっ飛ばして爽快感を得るというような少々乱暴なお話をしたが、私は極気性の穏やかな文学青年である。「動」なる刺激で楽しんだゲームと逆に心も体も「静」の状態で読書を楽しむこともする。TV、ゲームと違っていくらか心と体を落ち着かせる読書は同じ趣味でもまた違った趣がある。本は良い。まず紙の手触りが好きだ。電子書籍ではだめだ。手でページを捲って読み進めてゆき、たまに後に送ったページの厚みを見てはこんなに読んだのかと思ったり、逆に時間の割りに読んだページが少ないと思うこともある。その気づいた時に出来ている読み終わったページの厚みを見てその本がサクサク読めて理解しやすく物語に入り込める本なのか、難解すぎて同じところをもう一度読まないとわからなくなる自分には相性の悪い本なのかを判断するのだ。本は内容を読んでこそだが、そもそも内容と関わらず本を読むという行為自体がこうして興味的でおもしろい。故に私は若い内に学問を積むことを怠りながらも活字から離れることなく今現在も生活している。私の中では学校で行う学問と文学とは全く別物の扱いなのである。

 私は自分で飯も作る。今時流行りの料理男子である。生活の中での料理の面ではもはや母も祖母も彼女も嫁も外から呼び込んだシェフも私には必要ないまでに料理スキルは磨いている。そして食べることが大好きだ。時間があるのでホットケーキを作ったりオムライスを作ったりする。スイーツも大好きでこうして時間があるので少し遠いおはぎの店に行き大好物のおはぎを持ち帰って、おいしい茶と共にぺロリと頂く。 

 おいしい物を「おいしい」と言って食える。これ程幸せなことは無い。これは私の父方の祖母の言葉だ。

 私は普段からパソコンをいじるのが好きだが、それが無くともこうして楽しんでいける。そうか、趣味の一つが欠落してもそれで人生終わりではなくまだ他にも楽しみがある。私はこんな小さな発見から、もしかすると今住んでいるこの大都会から無人島へ行ったとしても無いものは無いという中で新たな楽しみを見出してそれはそれで結果として楽しくやって行けるのかもしれないと妄想した先で希望が湧いてきた。急なハプニングの中でいつもと違う環境の2日間を過ごして、どうやら私は意外にも適応力がありそして何より相当に楽天的な人間のようだと思ったのだ。

 考えると現代人に一日の間に全くネット空間と交渉を持たないなんて人は少ないかもしれない。私だって毎日一時間かそこらはネットに接続しているわけだ。時には電脳空間を離れ完全にお空の下の現実世界のみで生きるというのも良いものだ。