こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

なぜ私はギャルゲーをやるのか

 最近知ったのだが、ニンテンドースイッチでもギャルゲーソフトが出ているという。SONYさんは携帯ゲーム機作りに力を入れないようになったみたいで、現在では携帯ゲーム機なら任天堂の一人勝ちになっているようだ。ギャルゲーが携帯出来るという点からギャルゲープレイヤーには神器となったPSPもとっくに生産が終わったもんな。後継機のVitaは未だゲットならずだし。

 しかし任天堂機器でギャルゲーがどんどんリリースされるとか、なんかスゴイよな。ここに来てゲーム業界の大きな変化がコレではないだろうか。

 近々メモオフの過去作をまとめたものがスイッチで出るというし、それはかなり欲しくなる。スイッチはまだ買っていないけど、従来の任天堂らしい作品に加え、ギャルゲーも充実するのであれば、もしかすると最強機器になるのではなかろうか。

 そんなこんなで未来に明るい希望を抱いている。

 

  私はなかなかの年月に渡り、細々とゲームコレクターとして活動している。これまでを振り返って集めたものを眺めてみると、意外にもギャルゲーが多いことに気づく。集めたものの多分2割くらいはギャル共が埋め尽くしている。もちろんコンシューマーゲーム対応ソフトのみなので、人前でプレイしても全然大丈夫なものばかりだ。

 

 人はなぜギャルゲーをやるのか、それは知らん。私は私以外の人の内情など知らないし、知ろうとも思わない。

 だが、私の中にはギャルゲーを楽しむ明確なる理由がある。今日はそれを書き記して行こう。

 

 ギャルゲーというコンテンツも歴史を重ねて随分と根っこを広げ、今となっては腐る程の作品がリリースされている。多くあるそれらに共通するテーマが「恋愛」である。私はこの恋愛が好きなのだ。

 元来から人間は、日本人は、もっと絞れば霊長類は愛を語らうことが好きな命である。なぜ好きかというと、恋愛はとにかく面白いからだ。面白いことが嫌いなんていう本能がねじ曲がった者なんてそうはいない。

 揉めることもあり、手を取り合うこともある。すったもんだのドラマの末に男と女が愛で深く結ばる。それは見て美しいものであり、胸がスッとするものでもある。

 情動に激しくアクションが起きないままには進行しないスリルある人生のイベントが恋愛なのだ。そんなイベントなら、奥深き趣があって然りである。恋愛に退屈はない。とっても楽しいのだ。

 

 ゲーム画面を通して、擬似的に恋愛を楽しむ。

「それって不毛で無意味で虚しいじゃん。そんな奥行きのない彼女よりも、街に出てモノホンの女を捕まえれば良いじゃん」

 という破滅的でもあり建設的でもある意見を実際に親兄弟からもらったことがある。

 確かにそれも一理ある。

 恋愛は絶対に実地がものを言うものである。ゲームや本の世界に陶酔してそれを味わった気にはなれど、それは似て非なるまた別口の楽しみを得たに過ぎない。つまり、実地の愛とゲームの愛は、かすりもしない別物でもあるといえる。

 私は現実に置き換えてゲームをするわけではない。元々ゲームの世界に用があり、そこだけを見て活動を行っている。これを現実逃避で行っているオタクがいるとすれば、それほど哀れなことはない。

 恋愛を楽しむこの手のゲームをプレイするのは、なにも独り身オンリーではない。恋人があり、家族を持つ者だってギャルゲーはやる。パートナーがいるにもかかわらず、頭にエロがつく本やビデオを見る男だっているだろう。それと同じである。ゲームにはゲームならではの楽しみがある。だからどういった状況の者でもやる時にはしっかりやるだの。

 

 恋愛をテーマにしたゲームをやることで私が一番得たいもの、それはずばり「キュンキュン」である。

 可愛いギャル共と甘酸っぱい青春の物語を楽しむ。そのスタート、過程、オチの全てにキュンキュンが散りばめられている。恋愛とは千歳飴のようなもの、紆余曲折ある過程のどこを切り取っても美味しいのだ。これが最初に上げた恋愛の面白さである。キュンキュンすることは、胸躍る楽しいことなのだ。わざわざ言葉にせずとも、人間をやっていればアホだって分かる情動の基本だろう。

 

 そしてキュンキュンすることには、アンチエイジングの効果があると私は信じている。ときめくことで心が若くいられる。

 私はゲーム世界に入り込んでヒロインにキュンキュンして心を踊らせる。そうして気分がいつでも若くあれるのだ。実際私は、周りからいつだって実年齢よりも若く見られる。

「ギャルゲーでキュンキュンする → 元気になる → 肌ツヤコンディションも良くなる」

 この流れであっているのだと思う。恋にときめいていると人生は楽しいのである。

 

 複数回プレイにより、違う時間軸を追う。その中で、前回プレイとは異なる相手を求めてまたキュンキュンできる。今時ヒロインが一択の作品もそうないだろう。繰り返しプレイすることで、何人とも恋愛関係になれる。この浮気的心情が満たされる点にも良いものがある。

 恋愛における日本人の基本的価値観において、一度に複数人にいくのは良しとされない。コレと決めた人間一択で人生を歩むのが正しく清いこととされる中、ゲームの世界であれば、面倒なそこの事情をぶち壊して可愛い子ちゃんと楽しめる。これだからギャルゲーは良いではないか。恋に多様性を求めることが出来るのだ。

 

 キュンキュンする心理面の話を先にしたが、やはりこの手のゲームは視覚的にも楽しめる点が強い。だって出てくるギャル共は皆可愛いのだから。美少女ゲームと銘打ってわざわざブスを出すこともないだろう。とにかく見た目はもちろん、優秀なゲームなら中身までしっかり可愛く作ってくる。

 結構最低なことを言うかもしれないが、私がゲームに「可愛い」を求めるのは、現実のブスに飽き飽きしたことが関係している。現実の人間は、この私も含め顔に個性が出すぎている。その中には、いわゆるブスも散見するわけであり、そんなブスと比べると美しい顔を見る方が楽しいし気分が良いに決まっている。ギャルゲーには、ブスがゼロの美しき世界を提供することが約束されている。

 ブスはブスで趣があるとは思うが、連発はきつい。たくさんお外で活動してそういった面を見て帰ると、ゲーム内の美しい顔に癒やされるのだ。

 これは断言するが、殊美において、3次元で頂点を極めた者でも、無限の可能性がひしめく二次元を凌駕することは敵わない。三次元だけで生きず、二次元を行き来する目的は、美の癒やしを得ることにある。ギャルゲーの女子はやはり可愛いのだ。

 

 それから、私は普通に読書が好きである。この手の作品は、単純に読み物としても楽しめて良いのだ。 

 

 まぁギャルゲーの楽しめる要素は様々あるが、これを楽しめる人ってのは心が純粋なのだと思う。

 この世のどこにもない画面の中に作られた世界を本気で楽しむこと、心を割り切ってそこにフォーカスする準備が出来るのは、不純物がひしめくハートの持ち主では出来ないことだろう。ギャルゲーは我々を純粋にさせるのだ。

 ある程度はピュアさが残った若い内でないと本気で楽しめないコンテンツなのかもしれないとも思う。私は年寄りになったことがないからはっきりとは言えないが、歳を取るほどに現実とのズレが目立ってゲームに集中できなくなるのではないかと予想する。だからまだ若い内に遊んでおこうと思う。

 

 そんなわけで、私にとってギャルゲーとは、ある種の精神安定剤でもある。

 現実は現実でしっかり楽しく生きる。それを行う上で精神を癒やし、安定させる要素がギャルゲーに、もっと広くいえばゲーム事態にあるのだ。

 

 改めてゲームってのは良いものだ。人生の質の底上げとなる素敵な発明である。

 

 

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