こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

なかなか進まない離婚話「蓼喰ふ虫」

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「蓼喰ふ虫」は谷崎潤一郎の書いた小説。

 1928年12月~1929年6月まで新聞連載された作品である。

 

 谷崎文学らしくテーマは男と女のラブについて、この作品でも男女愛の奥の深さ、同時に面倒臭さを解いている。これだから人は恋愛をせずにはいられない。

 

内容

 大阪在住の斯波要(しばかなめ)と美佐子の夫婦は、倦怠期を極めてすっかり冷え切った夫婦となっていた。それは口にせずとも小学4年生の息子弘にも読み取れるものであった。

 夫の愛を受けることができな美佐子は阿曾という男と姦通し、要はそれを容認している。そして要はというと、ルイズという娼婦の元へ通う生活をしている。同じ家に住みながらも夫婦の関係性が壊れきっている二人は離婚の準備を進める。

 しかし離婚はすると決めたが、自らの進路を決めるのに考えあぐねる夫婦はダラダラと離婚を先延ばしにして、惰性のままに仮面夫婦を続けている。

 そんな折に美佐子の父から人形浄瑠璃を見に行くぞと誘いをかけられ、夫婦は夫婦のふりをして文句を言いながらも出向いていく。

 上海務めの要の従弟の高夏が日本に帰ってきて、離婚のことを相談するが、結局夫婦が渋って話あ前に進まない。

 要はとうとう義父である美佐子の父に離婚のことを手紙で報告し、その後二人して義父の家を訪ねる。

 義父は要を家に残し、娘の美佐子のみを連れて懐石料理屋に行く。その間要は義父の妾であるお久に接待をうける。

 離婚の決着までは描かれてずそこで話は終わる。

 

感想

 あらすじのみをたどると「なんじゃそりゃ、下らん」の感想で終わりそうなもの。しかしこの作品、男女関係の結構深いところをえぐっているような気がする。

 

 夫婦の間には確かに愛がないが、美佐子は夫に愛されないことを悲しんで夜には枕を濡らし、要も妻の欲求を満たすことが出来ないことに関しては申し訳なく想っている。愛は無くとも人情でもって、互いを気にかけることはしている。あくまで愛に関してであって、人間として完全な不和というわけではない。この友人以上であり、恋人以上のラインは下回ってしまった微妙な距離感がもどかしい。

 憎み合ったりして完全なる仲違いをしていればもっと簡単に別れられるのにな、といった状態が珍しく、興味を引く。

 しかし、夫婦間で不貞を容認しているとは異常事態だな。

 

 離婚するにも良き時期があると夫婦は考える。美佐子の受け入れ先の阿曾家がその準備ができていないからまだとか、ただでさえ寂しい季節である冬にするよりも春にした方がなどなど理由をつけては離婚を先に伸ばす。さっさとすればいいじゃんとツッコでしまうくらいに夫婦が尻ごんでいる。

 相談役の高夏がイライラするだろうなと思える。

 

 作品で泣かせるところは、まだ幼い息子の弘が夫婦仲の上手く行っていないことに気づき、そのため場を和ませようとわざとおどけたりして気を遣うところにある。これは息子が本当に可哀想。気晴らしに高夏が旅行に連れて行っても、離婚する予感がして夜には泣いているとあるのでマジで可哀想。

 

 夫婦の離婚に関する話がメインだが、序盤と後半には美佐子の父の道楽に焦点が当てられる。どちらも人形浄瑠璃、三味線などで、ここでは美佐子の父がうるさ目に講釈を垂れるので、お話のテンポが乱れるとまではいかないが、それほどスムーズではなくなる。

 物語序盤で夫婦は文楽人形浄瑠璃にお呼ばれする。丁度これを読んでいる時期に放送した「マツコ&有吉 かりそめ天国」で狩野英孝文楽人形を見学に行った映像を流していた。「ほぅこれが要達が見た人形かぁ」と参考なったので良かった。

 美佐子の父が言うには淡路人形という方が味があって良いらしい。このお祖父さんは道楽については拘りが強くてちょっとやかましいと想った。

 

 後半の淡路で人形浄瑠璃を見るシーンでは、なにせ古い時代なのでトイレの設置が雑ときている。会場トイレを使えば音が聞こえ、臭いも漏れてかなわないという描写がある。

 大衆がこぞって訪れる娯楽の場なので、当時はこんなことにもクレームを入れずに観劇を楽しむのに一生懸命なのだったのだと分かる。お久がこんなトイレは使えないからと宿まで帰ってトイレを済ますというのが記憶に残った。

 

 最終的に離婚が決着がつかずに終わる。これに関して美佐子と父は料理やでどんな話をしたのかと色々と考えてしまった。

 夫婦って、それよりも男と女って面倒臭い。

 

蓼喰う虫 (新潮文庫)

蓼喰う虫 (新潮文庫)

 

 

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