こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

訳がわからない。だがそれが良い「ゴドーを待ちながら」

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 サミュエル・ベケット作の戯曲である。

 

 本作はとある田舎の一本道が舞台。エストラゴンとウラジーミルというかなり歳のいった冴えない浮浪者が主な登場人物の2幕構成のストーリー。

 途中にポッツォという高慢ちきなジジイとその下僕のラッキーというのが出てくるが、まあコイツらのことはいいだろう。

 

 この作品はストーリーとして難しいことは何もない。難しい内容のお話ではないのに読み終わって「何じゃコこりゃ?」と感想が漏れる謎の作りの話なのだ。これまでに話自体が難解な構成の本を読んで頭を悩ませたことはあるが、この「ゴドーを待ちながら」のように筋ははっきりしているのに何故か話の本質が掴めないのも不思議だ。

 

 

 ストーリーの中で明らかにされることはタイトルにもあるゴドーなる人物の到着を二人の浮浪者が道で待ち続けるお話ということ。確かなことはそれだけであとのことは訳がわからないお話である。

 

 まず、重要人物であろうはずのゴドーが遂に登場することなく物語は終わる。年齢、性別はじめそもそも人かどうかもよくわからない。ゴドーという人物の謎がただただ深まって終わる。

 そして、ゴドーを待っている二人が実はゴドーを知らないという点がまたよく分からない。ゴドーと二人の関係性も明らかにされない。

 

 第1幕で一日分時間が流れ第2幕で二日目に入る。エストラゴンとウラジーミルはもちろん超暇なのでたわいもないことを話して時間を潰す。コイツらの話というのが建設的な要素がゼロな上に会話の流れに前後一致性が無いことで無駄話も無駄話の極みであった。浮かれまくる昼休みの中学生だってもう少し実りのある話をするであろうと思える。

 

 とりとめのない下らんことをして時間を潰す間にエストラゴンは「そういえば何もおきないね」とか「何をしているんだっけ」といった具合に間抜けなことを呟いたりもする。読んでいるこっちの意見である。

 エストラゴンは物忘れが激しく、しばしばゴドーを待つという目的を忘れて場を離れようとするがその度に相方のウラジーミルが止める。

 

 ウィキペディアでこの本について調べると「自己の存在意義を失いつつある現代人の姿とその孤独感を斬新なスタイルで描いている。」とあるが、そんなことは無い。批評家が何と言おうとそういうことは私には読み取れない。現代人の例としてこの登場人を使うのはしっくりこない。底抜けに謎でこの話から何かを掴み取るというのが雲を掴むに同じような話であった。

 

 訳がわならない。それなのにスムーズに最後まで読んでしまったのはエストラゴンとウラジーミルの会話の軽妙さに魅力を感じたからである。中身があってないような会話だが、心地よく独特のテンポの会話であった。

 

 これは記憶に残る一作である。正直私はこの話にはほぼメッセージ性を感じなかったわけだが、この愉快に謎な世界観は好きであった。

 謎でも良いじゃないか、文章が紡ぐ世界に面白いがあれが少々の謎は許せるのである。私にとって物語作りの可能性を広げたワケのわかならない一作であった。

 

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

 

  

 私も私にとってのゴドーを待とう。または私がゴドーになっても良かろう。

 自分で言ってて意味わからんっす。