レトロゲームを買う。たくさん買う。でも人生の残り時間でそれら全部を遊ぶことなど出来ない。全てプレイし終えるなら来世まで計算に入れておかなければならない。
では、なぜやりもしない、あるいは出来もしない物を人は、コレクターは次々と買い集めていくのだろう。そんなことをふと考える時期がやってくるもの。というのがコレクターあるある。収集物が一定の困った量に達した時ほどコレを思う。
自分で答えは出ているが、客観的に見るとこれは不思議現象だ。周りの者は「じゃあ、なんで買うのさ?」となるわけだ。
私はその後のプレイの有無はよそに日々レトロゲームを好んで集めている。
これを他の収集物に例えて考えてみよう。
例えば、兜、刀、壺などの骨董品を集める爺さんがいるとする。
その爺さんは、兜を実際に着用してファッションとするのか。否、そうではなかろう。重いので腰を悪くするし、きっと職質にあって有意義な時間を過ごすことになるからだ。
その爺さんは、刀を常用して人でも大根でも斬りまくるのか。これも否、そうではなかろう。だって廃刀令のご時世になって久しいからだ。
その爺さんは、高い壺に花を活けたり、タコを招きこんだりするのだろうか。これこそ否、そうではなかろう。
そうなのだ。おかしな話だが、コレクターに限っては、購入するアイテムの実用性など二の次なのだ。観賞用、保存用にする物が多い。
コンピュータゲームならハード、ソフトがあればいつでも遊ぶ事が出来る。しかし、私は集めた物を棚に綺麗に並べてそれを眺める。それオンリーで快楽を得ることが出来る。
ぶっちゃけ、内容はゴミみたいなゲームもあるが、ジャケが良いということでビジュアルは合格、出回った数が無いので希少性があるなどすれば、集めてとても満足な一品となる。
多くの人間が私に尋ねる。「集めてどうすんのさ?」
これが愚問と分からぬヤツがあまりにも多い。集めてどうするの前に注目して欲しい。どうかした結果がコレってことに。
そう、集めるのは目的ではなく結果でもある。目的と結果がイコールするということで、手順少なく楽しめるお得な趣味でもある。
おまけの事を言えば、これらは後にきっと資産になる。
いくら待てどもやっぱりゴミのままのゴミもあるが、ゴミと思いきや数年待つとお宝になるものもある。「うえきの法則」的素敵さがココにある。
元手がほぼゼロで入手したものがお宝になると嬉しいに決まっている。この話をするといやらしいから良くないし、生涯手放すつもりはないから売値はどうでもいいと言えばそうなのだが。
昨今、私が趣味でコレクトした物を、喉から手でも足でも出るくらいに欲しがる輩が多くいるらしいとネットで知る。
なんだろう、これはきっと優越感。だって劣等感はまるでない話だよな。
そんなコレクションも数が増えて困るのは確かに困る。
自慢ではないが、生きる上で与えられた環境の都合を言えば、他の者と比べて収集スペースを広く持てる人生を送っている。だからある程度までは許される。
だが、その内床が抜けるとかなると怖い。
楽しい趣味だが、収納に困ることでややストレスにもなる。
趣味のものだけを置く小屋でも建てたいと思うが、それで金を使うし、無人の小屋でも固定資産税っているのか?まぁ何にせよ用意は絶対に面倒。
究極論を言えば、図書館やブックオフみたいに棚がずら~と並ぶだけの部屋なり家が欲しい。棚の空きスペースが愛しいコレクションで埋まっていく快楽は、どこのコレクターとでもきっと共感出来ることだろう。
そんな感じで楽しい趣味とちょっとのストレスがイコールの充実ライフを送っている。
コロナがなんだ!我々は死んでいる場合ではない。死に抗って充実ライフを満喫するのだ。
人類よ、次の時代で元気に会えることを祈る。
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