「チャップリンの殺人狂時代」は、1947年公開のアメリカ映画。
視聴は2回目だが、結構忘れているので新鮮な気分で視聴した。
コロナ騒ぎのせいで、せっかく家にいてもテレビで新作が見れなくなった今だからこそ、過去作の視聴意欲が増す。
古き良き時代の名作をあさるのも悪くない。
内容
主人公のアンリ・ヴェルドゥは、30数年に渡って真面目に銀行に務めたが、リストラの憂き目にあってしまう。それ以来、彼は中年マダムをターゲットにした結婚詐欺&殺人を行うことで金を稼ぐことになる。
足を悪くして車椅子で生活する妻、幼い息子がいながらも、ヴェルドゥは金のためあちこちの家庭にお邪魔して異常な二重、三重の生活を行う。
最後には運命に身を委ねて彼は警察に自首する形となる。
裁判で死刑判決が下り、ヴェルドゥが絞首刑台へ歩いて行くシーンで物語は幕を下ろす。
感想
世界恐慌に揺れる激動の時代があったという歴史が学べ、その中で戦争の愚かさと人の真実性をも学べた良い作品だと思う。
喜劇を売りにしたチャップリンだけに、ユーモアも詰まった作品だが、従来のものとは違い、世の暗い部分を映す風刺がかった一作になっていた。
主人公ヴェルドゥはスタートから既に死んでいて、最初は彼の墓が描かれる。そこから彼が墓の下に入るまでの回想として本編が描かれる。
殺し屋稼業なんてのは危険な割に実入りが少なく、よっぽどの楽天家でもないとお勧め出来ないというメッセージは印象的だった。
あれこれと手を打っては中年マダムを手篭めにし、うまいこと金をゲットするヴェルドゥだったが、ターゲットの内アナベラの殺害にはことごとく失敗する。
アナベラのキャラが立っていてかなり面白かった。おバカなおばさんで、下卑た高笑いをするのが面白い。
反戦的要素をメインテーマにした作品だけに、本作は従来のチャップリン作品よりはユーモア要素が少なめだった。そんな中でユーモア要素を出したのはアナベラ絡みのシーンだった。アナベラは本作を明るく彩るおもしろヒロインだった。
ヴェルドゥがグロネイ夫人を結婚詐欺にかける最終段階の二人の結婚式で、イレギュラーな存在としてたまたまアナベラが顔を出すことになる。そのせいで巻き怒るユーモア展開は楽しかった。
雨の日にヴェルドゥがたまたま助けた女性がキーパーソンとなる展開も良い。
刑務所上がりのこの女性を、最初は毒殺の実験台にしようとしたヴェルドゥだが、彼女の言葉に人生の希望を見て計画を取りやめる。後半でもこの女性と再会したことでヴェルドゥの運命は変わっていく。
人の運命は理屈では語れないものだという女性の言葉も印象的なフレーズだった。
ヴェルドゥが警察に捕まってからの後半シーンでは、特に反戦的要素が濃く出ていた。死を前にして臆面もなく生死の概念を説くヴェルドゥの喋りは印象的なものだった。
戦争も殺人もビジネスであり自分はその素人。一人殺せば殺人犯、100万人殺せば英雄。自分はこれから死んであの世に行くが、ここにいる人間達との再会はそう遠くはない。
神との間を取り持ってくれる神父に対しては、神とは上手くやっている、上手くいかないのは人間と返す。
これらのセリフにはぞくり来るものがあった。大義名分を掲げることでそこらへんの不都合を散らしてはいるものの、ヴェルドゥがやってきた犯罪による金儲けとビジネスで戦争を行う連中では根っこが同じなのではないか、ということも考えてしまう。結果として人殺しをしているは同じだ。この問答には深い気づきを得た。恐ろしく冷ややかな皮肉だったので印象深い。
100万人殺せば英雄になれる軍人の世界から見れば、殺人者ヴェルドゥの一言は許しがたい冒涜だろう。というわけで、本作を手掛けたチャップリンはいわゆる赤狩りの憂き目に合い本国を追放される。いつの世でも、聞く者によっては毒となるのが正論である。チャップリンが作品を通して広く世に伝えたメッセージは確かな真実だが、それに怯む勢力は絶対にいる。臭いものに蓋をする政治情勢も見られる作品だった。
殺人者ヴェルドゥが叫ぶ一声には感銘を受けた。今こそ多くの人間に見てほしい作品である。考え方によっては、戦争などで狂った世界の犠牲者となったのがヴェルドゥなのかもしれない。とにかく深いことを言っている作品だ。
牢屋を出て処刑台までトボトボ歩いて行くヴェルドゥの背中を映したラストのシーンは印象的だった。なんとも言えない気分でエンドを迎えた。深いメッセージを孕む名作だった。
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