こしのり漫遊記

どうも漫遊の民こしのりです。

小学校の卒業文集ってどうするもの?

 小学校の卒業文集ってどうするものだろうか。とかいっても人がどうするなんてどうでも良いんだけどね。

 

 私は記憶に間違いなく捨てたな。捨てたタイミングも覚えている。

 部屋を移動して新しい青春の基地を築くという家庭内引っ越しがあった際、身軽な移動を叶えるためいらない物は前の前の部屋のゴミ箱に置いていく事にした。それは後に母が回収して無事に焼却処分します。文集はそのタイミングで燃えた。

 

 あのくらいのタイミングで何かの漫画の全巻セットを買い、その収納のために文集なんて厚い本が邪魔になったんだな。じゃあ消えてもらうしかないわな。

 よくよく考えれば、想い出の品だからってことで捨てない人はいるだろうけど、頻繁に見ることなんて絶対ないだろう。私も出来上がったその時を最後に、二回目の表紙オープンなんて無いままさようならした。前進に忙しい人生だったものだから、過去を振り返る機会がなかったんだなぁ~。

 

 考えてみればよく分からんヤツらの青春の日誌的内容の作文がずっと続く訳の分からない読み物だよな。じゃあ図書館で啄木あたりの詩集読むわ。

 でも載っているのは全てかつての同級生の言葉なんだけどね。でもいくら同級生のよしみとは言っても何回も読みたくなるものじゃないだろう。それと割と簡単に人の事を忘れてしまうので同級生の事もかなり忘れている。忘れた状態だったら楽しめない書物だよな。

 これって書いた本人達も何を書いたか覚えてないだろ。そのくらい誰も読まんって。その証拠に、この私は自分が何を書いたか全然覚えていない。ただそういうのがあったということしか記憶してない。もしかすると書いていない可能性もあったりするのかも。

 

 そんな文集について、こういうきっかけがないと二度と再び思い返すこともないだろうという出来事があった。

 それは私のお兄ちゃんが持ってきた話だった。

 

 お兄ちゃんには友人がいて、その友人の家に遊びに行った際、私の文集を発見したというのだ。

 もっと詳しくいうと、お兄ちゃんの友人の弟が私のかつての同級生だったそうな。だから同じ物がそこにあったという。で、読んで楽しく暇潰しとしたらしい。

 ちなみに同級生だというそいつの事はよく覚えていない。なにせ昔のことだし。そもそも人を覚えるのに一生懸命にならない質なもので。でも向こうは私の事を覚えているという。どうやら他と違った印象ゆえ記憶にしつこくこびりついてる的な説明があったとお兄ちゃんから聞きました。良いことだ。

 

 こういうのってどういう構成になっているかというと、まずはクラス全員のプロフィールページがある。次に何かしらのテーマで書く作文があってそれが主役部分になる。あとはおまけでクラス内で行う「~ランキング」てのがあるとのこと。

 ランキングにはどういう項目があったのか覚えていない。でも何かの部門で私の名前が上位にあったとお兄ちゃんから聞いた。なんだったのだろうか。

 

 お兄ちゃんは私のプロフィールページを見て来たという。作文はあったにはあったけど、字を読むのがめんどいから中身は確認していないとのことだった。現代人の活字離れが進んでいるようだが、その都合が濃く見える人間が身内にいた。

 

 私のプロフィールページがどんなだったという報告を受け、我ながら偉いと思ったのだ。これはその過去があり、それを経た今であって良かったと思えるものだった。

 プロフィールには趣味を書くところがある。そこにはやっぱりオタク関係の事を書いていた。私らしい!正直で愛せます。←軽くナルシシズム発動。

 余裕で21世紀に入っているのに、昭和の特撮とかアニメとかゲームのことを書いている。それを見てお兄ちゃんも「コイツ変わんねぇな~」と思ったそうな。

 

 これで思ったことがある。当時はガキだから何を書いても皆そんなものと笑って終わるが、その後大きくなって全く違う人間性に育っていたら、昔書いた内容が黒歴史になりはしないか。

 例えば私がオタク全開の内容を書いたその後に、完全なる脱オタをしてお堅く真面目に生きるつまらない人間(←そういう人が悪いとは言わないけど)になっていたとしよう。そうなると、オタク全開な内容を過去世界で晒していたことでハズくなったりもしたのかな。

 いや~良かった。最初に愛したものを今でも変わらず愛しているから、文集の内容を見られても恥ずかしくも何ともない。むしろ当初の愛と熱を貫徹したことで己を誇って胴上げしてやりたい。

 

 その話をお兄ちゃんから聞いた後に食う飯は通常より+αで美味かった。

 

 そういや同じ感じで卒業写真ってのも捨てたな。卒業写真も捨てたとお兄ちゃんに言うと、お前は物持ちは良くてずっと同じ物を持っているけど、捨てる時にはマジで迷いが無いなって言われた。

 母からは捨てた捨てないのことはともかく、あんなものでもどこかで払った学年費ってのが使われているはずだから、払った身からすれば何かモヤるみたいなことを言われた。

 だよなぁ。無料で作って配るわけないもの。どこかで親が金を払っているんだよな。そう思えばありがたいものに思えてくるはずなのだが、全くそんなことがない。

 実用性と面白みが皆無のアイテムにはそういう感情が湧かないんだよな。私は同窓会ってのにも行かないから、学校のことが記憶として遠のくばかりで、愛着が育つどころか消えて行くんだよな。

 

 こうして過去の自分とニアミスすることがあれば、結局あの頃から今日までずっと楽しんでいたんだなとしっかり気づけた。総じて良い人生だった。明日死ぬとしてもその感想で全てを締めるだろう。

 

 しかしあの文集はクラスの人数の数しかないはずだから、世界で数少ない内の一冊が私の手で葬られたことになるわけだ。後に有名人になった人の名前でもあれば価値があったかもだが、多分皆ただの人間として終わって行ったはず。

 その他もしも使える可能性があるとすれば、名前が載ったヤツが何らかの犯罪を起こした場合かな。そいつを捜査する過程でこういった古いデータが役立つかもしれない。 

 でも私の所に誰か捜査官が来たことはない。恐らく古巣の仲間達は誰も捕まっていないはずだ。ならば良かろう。

 

 こんな感じで、後にどういう使い方が出来たのだろうと想像してみればやっぱり価値がないなぁ。これから何十年と生きていくだろうけど、その先で処分を後悔するくらい必要性が出ることは絶対無いと思う。改めて処分して問題ない書物だったなと気づいた。

 ていうかそもそも作る意味が必要あったのか?あれって今の学校でも作っているのかな。もしかしたら全部データの電子書籍文集とかを出しているのかも。それはそれで面白いかも。でもハズい事を書いたら、青春の想い出が後にデジタルタトゥーにもなりかねない。やっぱり無くなっても良い文化かも。紙だって勿体ないし。

 

 これも昔から今日まで思うけど、特に組織内で問題があったわけでもないのに、集団における帰属意識ってのが育たない人間なんだよな。特に喧嘩などの揉め事もなく、かといってめちゃ仲良しなわけでもない距離感だから自然とそうなる。

 絆を強める、逆に深い溝を作る問わず、人と人の関係性を強くするためには、ある程度本気のラインで互いが向き合うことが必要なんだな。私はそこのところが随分淡白だったのかも。

 

 そういえば先生から「もっと他人に興味を持った方が良い」と言われたことがある。これはどの子に対してでも言うことではない変わった声かけだろうなぁ。だから覚えている。先生も結構見て気づいているんだなぁ。

 

 楽しい趣味に没頭するのはそりゃ悪くないさい。でもちょっと暇したなんてことがあれば、他人様だらけの周囲に目を向けるのも悪くないかもよ。という気づきをどこかの誰かに勧めて今日の活動を終えよう。

 

 

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