こしのり漫遊記

どうも 漫遊の民 こしのりです。

昔書いた日記の処分はどうするべきか

 その日何があったのか。誰に言われるでもなく、その記憶を記録したい。そうして記憶を記したものをマイ日記と言います。

 なんとなくやっているそれもいつかは打ち止めになるはず。意識的に止めるか、記録すべき明日が無くなったか(つまり死ぬ)、どちらかのルートを取って止めになる。

 この私もホントなんでなんだろう?と思うくらい、なんとなく日記をつけていた。それも10年以上となり、振り返れば学校のノート15冊以上にまでなっていた。 

 そんな私だが、現在は日記を止めている。止めたのが1年半くらい前のことだ。止めた後も私は何度となく明日を迎えているので、この場合は先に上げた2つのルートの内だと、意識的に止める方を選んだわけだ。

 

 日記を止めるにも何か理由がないとなんともならなかったと思う。なぜか習慣化していて、晩飯後か寝る前になんとなく書き始めるわけよ。人に見せることなんて意識しないから、特別面白く凝った内容を書くわけでもない。

 三日坊主な同級生からすれば、習慣を作ることは難しいということたが、作ったからにはそれを止めるのもまた簡単ではない。日記も書かないなら書かないで落ち着かない。というか書くと落ち着くまでになっていた。なんだかんだ好きな時間だったのだな。

 

 書く内容といえばその日食ったメシのこと、見たアニメにやったゲーム、あとはとにかく楽しかったあれこれ。特別ムカついたこともあれば書いたかも。人に対しての悪口とかもたまにはあったと思う。心のムカつきはこういうところに書くと案外スッキリするものだ。

 

 人生で日記というものを初めて知ったのは「晴れときどきぶた」のアニメか本を見た時だったはず。どちらが先か知らないが、晴れぶたはアニメも本もどちらも楽しんだものだ。親からの勧めで導入された我が家の教育コンテンツです。

 あの作品の中で、主人公少年の10円安こと畠山則安くんが絵日記を書くシーンがある。その絵日記が後には物語のキーアイテムになってくるのだ。そんな彼を見て絵日記というものを知った。そこから絵を抜いたただの文字の日記も学んだ。

 思えばあれきっかけで遊びとして始めたのかな。チビの頃は遊びで書き、そこから書かない時期もあったけど、大きくなってからまた自発的に書くようになった。

 趣味と言えるくらいに親しむ書き物時間となったが、何を目的に始めたという明確な理由は今でもはっきり言える内容がないかも。大きく理由なくこういうことを始めちゃう人間の心理ってのも良く分かんないものだな。

 

 それをどうして止めることになったかというと、生活環境が大きく変わったからだ。これは断言出来るが、そうまでしないとなんとなくのあの日課はずっと続いたことだろうと思う。

 私はそれまで所謂二拠点生活というやつをしていたのだが、その内一つの拠点を畳んで拠点統合を行うことになった。このような言い回しをするとなんだか大げさなものに聞こえることだろう。ショッカーの支部異動かよってな感じに思えるが、まぁ規模の狭い話です。実際、拠点をあっちにこっちに持っていることについては、ウチのお兄ちゃんからも「ショッカーやデストロンじゃないんだからさ~。世界征服でもすんのかよ」とツッコまれた。

 その拠点統合ってのが本当に大変で面倒でマジで疲れるものだったのだ。もうこんな事は二度と再びしたくないと思った。拠点なんて一つあれば十分っす。

 

 この私がそうもヘロヘロになる案件なんてよっぽどのやつだから。そのレベルで疲れる面倒臭いことがあったのなら、日記なんて書いている暇ではない。本当に、ゆっくり書ける時間と体力がなかった。

 そんなこんなする内に、気づけば4日、5日と書かない日が続いた。そこからは流れのままにフェードアウトしていった。

 始める理由も大してないのなら、止めるにもそうだし、止めるのを止めにする理由もまたないことから、遅れた分を取り戻すことなくそのまま日記は終わった。今となってもまた書こうとは思わない。

 なんかコレ、不思議なんだけど。自分の中で起きたことであり、10年以上という長く続いたことなのに、その終わり時があまりにも呆気なく、特に何か思うこともない。特に何も出てこないというのが、とりたてて珍しい体験になったかも。

 

 で、ここで思うことがある。こういうのはたまに自分で読み返す分にはまぁ笑えて面白いだろうさ。

 でも、人に見られることを想像せずに作り上げたものだから、こうして活動が終わって山になったノートを見れば、残しておいてどうすんだよと思えてくる。

 私は書き終わった日記ノートもずっと取っておいた。ばあさんの代からのことなんだけど、とりあえず何でも取っておけば、後でまたなんとでも出来るという頭で日々生きるのが良しとされていた。そんなのだから、やっぱり何でも取っておいて持ち物が多いのである。

 

 ずっと先のことにはなるけど、自分が死んだらその後片付けを家族の誰かがするわけじゃないか。その時にこうして私しか知らない私の時間を誰かが見るとしたら、それはそれでどんな感想が出るのか興味はあるっちゃあるけども、同時にそうなるのをガードした方が良いのでは?とも思う。そりゃちょっとはハズいこともあるからな。人に知られたらシャレにならん愉快な内容の記載はないが、なんだかなぁ~と思うこともあったり。まぁ色々思うわけさ。

 その結果、日記活動終了から少し経った時に、10何冊あるのを一気に捨てた。もっと寂しい想いになっても良さそうなものだが、特になんともなし。

 たまに読み返せば面白かったのだろうけど、実際のところ、前ばかり見て日々楽しくやっている人間なものだから、ゆっくりと過去を振り返るばかりの時間の用意は難しい。つまり、10何冊あってもそれを読むことなんてほぼない。

 取っておいても大して意味はない。じゃあいよいよ何で書いてんの?って話だけど、何でなんだろう?

 ついこないだも我が家のお兄ちゃんから「そういやお前、なんで日記なんて書いてたの?」と聞かれたことがある。その時にもなんでなんだろ?と自分で思ったくらいだし。

 

 こういった極めてパーソナル丸出しの物品ってのは、自分がいなくなった後の世界にも残ることをどこかのタイミングで想定して、然るべき扱い方を考えた方がよいのかもしれない。

 これと似たものなら、ガキの頃に描いていたオリジナルマンガもそうだ。これは日記と比べて寄せる感情が明らかになる。こっちはと見返してみてはっきりとハズい。

 やっぱり全てが稚拙で字も絵も下手。自分でハズくなるくらいだから、それを親兄弟が見ると思うとシャレにならんレベルをギリ越えてくる話になってくる。

 そっちは日記よりも先に始末した。内容がラブコメっていたりガチバトルだったりで、いかにもオタクが好みそうな世界だった。たまにノリがハズくてきつい。

 最初はゴミみたいな画力なんだけど、それでも素人が素人の活動を振り返っても気づく成長ってのもあるものだ。やっぱり学校のノートに、黒板の文字を写すことなく他の物を描いているんだけど、段々と私の絵も上手くなっている。

 自画自賛の極みみたいな感想だけど、たまにイケメンに描けている、萌える可愛い子ちゃんに描けているとオリキャラの完成形を見ることもあったりなかったり。段々と描き慣れて来て、最初はブスだったキャラも後半では美形度が増して来ているのだ。

 そういう己の腕の成長というのも、気づいたからにはなんかハズくて体の内部が痒いから手が届かずでどうにもならん。あれは捨てて正解だった。

 

 こういう経験をして思うのが、若くあることって恥ずかしいことであり、それゆえ楽しい。未熟だったあの季節をしっかり楽しみ、それを振り返ってもやっぱり楽しかったと言える今の気持ちがあれば、それがざっくりとした心の日記なんだな。私は下手くそなマンガや日課として日記を書いていた日々が楽しかった。

 捨てた過去のアイテムだが、そもそもやらねば良かったとは全く思わない。あれはあれで良いものだった。ただいつまでも手元に置いておくような物ではないってこと。

 人生における整理ってのは、どこかでゆっくりやるタイミングを取った方が良いのかもな。今日は色々なことを想いました。そうして何でも思うのが人間の思考ってものだ。

 

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